ハンターハンターの作品の中で随所に見られる対比描写ですが、キメラアント編に関してわりと有名な対比がゴンとメルエムです。
2人が対比描写で描かれる事で作品中では説明されない裏設定や伏線なども含めて非常に多くの考察が可能になります。
メルエムは様々なキャラと対比されています。
それはゴンとキルアの関係やコムギとメルエムの関係とも深く関わってきます。
深淵の見えないハンターハンターのキメラアント編における隠された想いなども含めて解説していきたいと思います。
対比描写
では実際にゴンとメルエムの対比描写がされているハンターハンターの作品中のコミックの巻と話数について確認していきます。
対比描写の内容としては片膝をついて座り、右肘を膝にかけて左手は地面についているというものです。
ゴンはピトーがコムギを治療するのを待ち、メルエムはネテロ会長が対話に応じるのを同じポーズで待っていました。
ゴンの描写
まずはゴンの描写からですが、ピトーがゼノの龍星群(ドラゴンダイヴ)に巻き込まれて重症を負ったコムギを治療するのを待つときに座りました。この座った時に対比となる描写でのポーズがとられています。
HUNTER×HUNTERのコミック26巻「No.275 約束」での描写です。
ゴンには最初コムギがカイトと同じように壊されているように見えたわけですが、ピトーが治療している事を理解します。
ただ感情は思考に追いついていませんでした。
ピトーに攻撃を仕掛けようとしますが、そこをキルアに止められコムギの治療を待つ判断をします。
その時に座って待つことにしたゴンがとったポーズが最初です。
実はこれと同じポーズというか姿勢をメルエムがとっていたんですね。
メルエムの描写
次にメルエムがゴンと同じようにとったポーズはネテロ会長と運ばれた戦争兵器の実験場での事です。
HUNTER×HUNTERのコミック27巻「No.288 賞賛」での描写です。
ネテロ会長の実力と心を見抜いたメルエムは対話を求めました。
そして対話をするために座りました。
この時のポーズがゴンがとったポーズと同じだったわけです。
これは明らかに偶然ではなく、ハンターハンターの作品全体やキメラアント編に張られている伏線と大きくかかわってくる描写と予想できます。
この深い意味が込められている対比描写での伏線を考察していきます。
実はメルエムとネテロの攻防が終わって、もう一度メルエムが対話を求めて座ったときには片膝をつく足は逆になっていました。
これはHUNTER×HUNTERのコミック28巻「No.297 最後」での描写です。
ゴンとメルエムの関係
それでは実際にゴンとメルエムが対比描写で描かれたという事で、この描写が何を意味しているのかや、どんな隠れた裏設定や伏線が存在しているのかなどを考察していきます。
2人の光
メルエムは母親であるキメラアントの女王に「全てを照らす光」という意味の名前を授かっています。
これは目の見えない暗闇の中にいるコムギの「全てを照らす光」という意味が込められていました。
メルエムとコムギは「光」と「闇」として対比していました。
そして実はゴンもハンターハンターの作品の中で明確に「光」として設定されています。
HUNTER×HUNTERのコミック19巻「No.199 光と影」のタイトルを見てください。
そしてこの中でキルアの心理描写があります。
「ゴン・・・お前は光だ。時々まぶしすぎて真っすぐ見れないけど、それでもお前のそばにいていいかな?」
ゴンとキルアは「光」と「影」として対比していました。
ハンターハンターのキメラアント編はカイトが右腕を失うところから大きく物語が進みだします。
右腕を失ったカイトとゴンは生き残り、左腕を失ったメルエム(ピトーに治療されて左腕は回復)とネテロ会長は死んでしまいました。
闇と影の違い
ゴンとメルエムは同じ光として対比描写がされているわけですが、その2人と2面性や対極にて対比されているキルアとコムギは同じ属性とは限らないという考察もできます。
キルアは闇の住人とかつてネテロ会長に評されていましたが、キメラアント編では作品のタイトルが示すように明確に「影」として描かれていました。
光を支え、より輝かすための存在ともいえます。
一方でコムギが影かというと、ちょっと違うかなと思うわけです。
軍儀では世界チャンピオンでもあったわけですしね。
目が見えない事で純粋な闇に例えられていたんじゃないでしょうか?
表現の仕方によりますが、闇が悪であるとは限らないのかなと思います。
コムギの場合は光が見えない闇の中にいたという事です。
人と蟻
ハンターハンターのキメラアント編は軍儀の儀の文字が示すように「人」と「蟻」すなわち人と虫について語られています。
「人」は個を重んじます。
でもこれはアブラハム・マズローの提唱した自己超越やカール・ ヤスパースの提唱した限界状況などによって覚醒すれば個より種を重んじるようになる事もあります。
一方で「蟻」は種を重んじます。
ただそこには種族愛があるとは限りません。女王蟻や女王蜂などが働き蟻や働き蜂を使って種の繁栄が全てであるように、個は大切にされる必要性はないのです。
生まれながらに個としてではなく種として黙々と働くわけです。
でも実は「働きアリの法則」というものが存在します。
本当にきちんと働いているアリは2割しかいないということで現実社会の人間世界と共通するものがあるようです。
「働きアリの法則」は「パレートの法則(ばらつきの法則)」の意味で使われる事もあります。
冨樫義博先生のナレーションが心に残ります。
ネテロ会長が「貧者の薔薇(ミニチュアローズ)」で自爆を選択した気持ちを考察したナレーションにて語られています。
「人と蟻でどこが違うのか。奥の手にこれを選んだネテロの内にそんな想いが全く無かったといいきれるか」
引用:HUNTER×HUNTERのコミック28巻「No.298 薔薇」
人と蟻の対比に関してはメルエムと対比されていたのはゴンよりは女の子として軍儀で戦ったコムギや、人類の代表として戦ったネテロ会長だったと考察できます。
悪意について
光として描かれていたゴンとメルエムでしたが、2人は一度はコムギを殺そうとしています。
コムギがカラスに襲われているのを助けるシーンにおいて、メルエムはその直前までコムギを殺そうとしていました。
メルエムは人と蟻との狭間で揺れ動いていました。
でもネテロ会長を倒した後に取ったポーズは左膝を立てる描写になっていて、それまでとは左右反転するポーズを取っていたので人として傾いたのだと思います。
一方でゴンもピトーに対して「次ゴタゴタ言ったらそいつを殺す」と何の罪もないコムギを自分の目的を遂行するために手段を選ばない意思を示しています。
HUNTER×HUNTERのコミック28巻「No.300 保険」でのセリフです。
蟻の王メルエムはコムギを大切に想い守るようになりました。一方で人間のゴンはコムギを守る事はなかったわけですが、代わりに命を懸けて守ったのは影の立場であったキルアでした。
メルエムを支えたピトーそしてゴンを支えたキルア。
あまりにも深い設定ですね。
キルアの神速(かんむる)はコムギやアルカなどの小さな女の子(北朝鮮の闇の中にいる13歳の女のコ、家族に囚われたナニカ)を逃がして自由にするために使われた技です。
まとめ
ハンターハンターのキメラアント編はゴンとメルエムの対比描写などを含めてあまりにも多くの事が語られています。
実はゴンとメルエムが対比描写で描かれているのと全く同じではないのですが、メレオロンも似たような姿勢でいる描写がありました。
これはさすがに単なる偶然かもしれませんけどね。
HUNTER×HUNTERのコミック23巻「No.244 6-①」での1コマです。
メレオロンが透明になってナックルとシュートを観察しているシーンです。
メルエムはコムギとも対比描写されていていて、この母子愛を描いた描写はハンターハンターの考察ファンの中では有名なシーンがあります。
ハンターハンターのキメラアント編における「人」と「蟻」とは一体なんだったのでしょうか。
奇しくも冨樫義博先生の名前には「義」があります。
「義」の文字に「人」と「虫」を足すと軍儀の「儀」となりキメラアントの「蟻」となるわけです。
実際に冨樫義博先生は作品内にも登場しています。
そして人と蟻とはアメリカと北朝鮮を揶揄していたようにも思えます。
東ゴルトー共和国は明確に北朝鮮をモデルにした国でした。
貧者の薔薇(ミニチュアローズ)はアメリカが日本に落としたとされる2つの核がモデルになっていました。
この記事を書いてからかなりの時間が経ってから知ったのですが、現実はなんとも残酷で悲惨なもので、広島と長崎に使われた原爆は日本製の地上起爆(地上爆破)だったという説ががあり、かなり検証がされています。
日本の歴史は捏造とすり替えで成り立っています。
明治維新でロスチャイルド家に仕掛けられた、なんちゃって日本人(なりすまし日本人)支配を作り上げた田布施システムは今も本物の日本人を苦しめています。
そして東ゴルトー協和国(北朝鮮)の目が見えないので闇の中にいるコムギは新潟から連れ去られた13歳の女の子がモデルだったのではないでしょうか?